「がんばれ」
TBS日曜ドラマ「集団左遷」を見ています。『半沢直樹』『下町ロケット』『陸王』などの池井戸 潤さんのようなピリピリするようなドラマを期待していたのですが、全くのコメディー調で、ちょっとビックリしています。まぁ、それなりに面白いので見続けようとは思いますが…。
ちなみに、私は池井戸さんの作品が大好きで、すべて読みました。特に『空飛ぶタイヤ』は面白かったです。もちろん、半沢直樹シリーズも大好きです。
さて、今回の「集団左遷」というドラマでは「がんばる」という言葉がキーワードになっています。
ドラマの解説をしても仕方がないのでとばしますが、その話の中で「がんばるという言葉を最近は使ってはいけない」という、くだりが出てきます。
結局主人公は、人が前に進むには「がんばれ」という表現が必要だと思い、社員に「がんばろう!」と言うのですが。
がんばっている人に「がんばれ」というのは、時に酷な言葉になり、その人を追い込むことになりかねません。だからその言葉かけは、タイミングが難しい時があると思います。が、しかし、だからと言ってすべての「がんばれ」という言葉を否定するのはどうかと思います。
人は頑張らなければならないのです。
先日の公津地区青少年育成協議会でお話ししたお父さん方の中で「昭和の熱血教育」を否定する方は一人もいませんでした。本当はみんな「熱さ」を求めているのです。
「ちょっと厳しくすると、○○ハラスメントと言われてしまう。下手をするとやめてしまう。いやぁ、今の時代は難しいです。先生方も大変でしょう。昔は先生に怒られても、まず親には言いませんでしたよ。もし言ったらもっと怒られましたから。」
この話は「昔は・・・」という定番でよく出てくるフレーズですが、でも実際に私が接してきたほとんどの保護者の方は、同じようなお話をされます。
日本人は「努力と根性」から成り立っているのです。そしてその努力を人に見せない、というカッコよさを持っているのです。
先日亡くなられた陸上の小出義雄監督の「ほめてのばす」というフレーズも、その根底にはしっかり選手を追い込んでいるというベースがあるのです。がんばらせているのです。
「がんばっている」から「ほめる」のです。でもその「がんばり」は、自分で口にするものではありません。見ているまわりのものが評価するものです。
人ががんばっている姿は、まわりを熱くさせます。特に若者が必死に努力している姿は人を感動させます。
「甲子園」「冬の高校サッカー」「春の高校バレー」などなど、みんなが必死に見て応援するのがよい証拠です。
もちろん先日紹介したように、年齢に関係なく努力している人の姿は、人を感動させます。
つづく。