県警は双方の車を運転していた2人を現行犯逮捕し、過失運転致死傷容疑に切り替えて捜査していたが、軽乗用車の女性(62)は8日夜に釈放された。
警察によると、この釈放された女性は、調べに「乗用車が急に右折してきた。避けるためにハンドルを左に切った」と説明しているそうだ。現場には右折してきた女性(52)の乗用車のブレーキ痕はなく、直進してくる軽乗用車に注意を払っていなかったとみられることから、県警は、軽乗用車の女性の過失の程度は低いと判断し、釈放された。
今日、亡くなった2人の園児の遺族の方がそれぞれにコメントを発表されました。その悲しみの深さは、当事者の方にしかわかりません。うわべの同情は、その遺族の方々を傷つける場合もあります。
私は、これまでにも「命」をテーマに「ぼうず」を書いたことがあります。特に、栄東中や本埜中のときの「ぼうず」は、私自身の経験が元になっていたので、生徒達の心には深く残ったことだと思います(詳細をここで書くつもりはないので、何のことかわからず申し訳ありません)。
「今日と同じ明日が来ることの幸せ」「平凡のありがたさ」
これらの話をずいぶんしました。
「不幸」というものは、本当に突然やってきます。そしてその「不幸」が命に関わるものだと、そこで人生の時計が止まります。
それはもちろん、命を落とした人はそうですが、同時に、残された遺族の方々の命の時計も止まります。
その止まった時間は、再び動き始めるのか。動き出すとしたら、いつ頃…。そんなことは誰にもわかりません。
「なぜ、うちの子が」「もしあのとき○○していたら」
自分を責めてしまうことさえあります。
朝起きて、保育園に行く準備をして、さぁ、子どもを起こそうと思っても、そこに返事をしてくれる子どもがいないのです。「いつまでグズグズしてるの?早く起きなさい!」と叱る相手が、突然いなくなるのです。
悲しみは、時間が解決すると言いますが、子どもの命の悲しみは、解決など決してしません。遺族が、心の奥底に深くしまい込むだけです。だから、ちょっとしたことで、フラッシュバックします。 つづく。