1年ぼうず

眞野 義行

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東京大空襲

 B29爆撃機による東京への本格的な空襲は、1944年11月24日に始まりました。飛行機工場と産業都市を重点とする戦略爆撃であり、高い高度から、多くは昼間に爆撃していました。しかし、1945年3月10日午前0時過ぎに始まった爆撃は、明らかに非戦闘員である民間人を狙ったものでした。

 B29  325機の大編隊は、超低空飛行で東京湾上空から侵入し、まず隅田川を挟んで浅草、本所、深川、江戸川方面へ円を描くように焼夷弾を投下して炎の壁をつくって逃げ場を亡くし、市民を中心部へとしぼり上げるように追い込みながら、その頭上に約38万発もの高性能焼夷弾を雨のように浴びせたのです。

 使用されたM69油脂焼夷弾は、木と紙でできている日本家屋を想定してアメリカが開発した兵器で、ユタ州の砂漠で実際に日本家屋の町並を建造し、実験を繰り返してから実戦にに投入されました(その実験の様子は You Tubeで見ることができます)。

 空中で1発から37発に分化し、着弾と同時に爆発し、周囲数十㍍にわたってゼリー状のナパーム油脂をまき散らして一帯を火の海にする。水で消すことはできず、通常よりも長時間燃え続ける特徴がありました。

踏みとどまって消火しろ」との指導が徹底されていた日本では、火たたきバケツリレーのような非科学的な消火手段がとられ、結局、消火できずに逃げおくれた人たちがたくさんいました。

 火のついたゼリー状の油脂は川面も埋め尽くし、さながら火の川となりました。火を避けて川に飛び込んだ人たちは、水面が火におおわれているので上がれず、水温0度の水中で溺死、または凍死していったのです。

 当時の日本では「戦況についての正しい報道がまったくされず、この焼夷弾爆撃についても新聞にはこのように載りました。

『B29に完勝。焼夷弾1戸も焼かず消火』1944年7月8日に北九州市を襲った空襲の読売報知新聞です。さらにその記事の中には『焼夷弾素手で握って放り出した』『地下足袋でもみ消した』という武勇伝が並んでいます。3千度の高熱を帯びた燃焼剤を噴出する焼夷弾素手で持てるわけがありません。

焼夷弾 一戸も焼かず消火』1944年12月24日に空襲を受けた東京都江戸川区の消火活動の紹介記事です。「焼夷弾ですか、こんなのは消すのが当たり前の話で、火事にするなどとんでもない」と勇ましい住民の言葉で締めくくられています。

 当時の警視庁消防課長の話。

 ・爆弾が落ちたら待避所(防空壕)から飛び出して消火活動をせよ。
・自分の家が燃えているのに爆弾を怖れて待避所に逃げているなど、言語道断だ。
・家が燃えているとき、布団や荷物を持ち出すだけで消火しないのはよくない。
・消防車を待つのではなく、自ら初期防火にあたれ。
(読売報知1945年2月27日付 より) 

 東京大空襲のわずか10日前の記事です。こういったでたらめな報道がされ続けた当時の日本。結局わずか2時間半の時間で、約10万人の尊い命が失われたのです。この10万人という数字はどれくらいの多さかわかりますか。成田市の人口は約13万人。下総・大栄・遠山地区を除くと約10万人。つまり、約2時間半の爆撃によって、ニュータウン近隣の地区が全滅したということなのです。

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