「昨日、東京で、母が買ってきたコップを壊しちゃった。」
とにかく日本語は、話題になる「そのもの」よりも、状況から話します。最後まで聞いて初めて、「あぁ、コップの話か」とわかります。
しかも、たいていの場合、主語がありません。
英語ではこうです。
" I broke a cup my mother bought in Tokyo yesterday.”
「私は 壊した コップを 私の母が 買った 東京で 昨日。」
このように、英語と日本語とでは、語順の並びが全く違うことがわかりますね。
でもこれは「語順の並びの違い」というよりは「考え方の違い」と言った方がいいかもしれません。
森を遠くから眺めてだんだん近寄って、生えている木を確認する日本人。
どんな木が生えているのか確認してから、森を見る英語人(変な言葉・・・)。
これが、会話の中にも出てしまいます。
まわりの気持ちや気配を読みながら、発言しようとする日本人。
まず自分の考えを述べてから、相手に意見を求める、英語人。
「私はあなたの考えに、ーーーーーーーーーーーーーーーー賛成です」
「私はあなたの考えに、ーーーーーーーーーーーーーーーー賛成できません」
最後の最後に、結論をひっくり返すことができる日本語。
それはまさに、集団で生きていくことが当たり前の、日本人ならではの発想。それが、「忖度」という奥深い言葉を生み出す要因ではありますが、いつもそれでは、だめなんです。
ちゃんと、自分の考えを述べなければ。
だから私は、次のテーマで子どもたちに英語を教えてきました。
玉中では「No と言える日本人」。
そこから" Sharing Ideas "(意見の共有)へとつなぎました。
成中では" Sharing Ideas " から " Debate " につなげました。
堂々と「 No と言いなさい!」
でも、きちんと反対する理由を言いなさい。
ニヤニヤしながらうなずいているだけの日本人になるな!と。
反対する理由を英語で考えることに意味があるのです。
なるほど、意見を言わないと言うことは、誰からも非難される心配がない、ということです。精神的に楽ですね。
一方、意見を言うということは、時には勇気がいるし、反対されたらどうしようという不安もあります。
せっかく発言した自分の考えが否定されるのは、ちょっと傷つきもします。ラインで文句や悪口を書かれたら嫌だし。
しかも最近は、赤の他人が、おもしろがって、否定のための否定や、根拠のないクレームで、その人を攻撃するということもあります(匿名で)。
フェイク動画なども出てきて、一体世界はどうなってしまっているのだろう?と、考え込んでしまします。
私が生きた「昭和」の時代には考えられないことです。
SNS の普及は、圧倒的に人との距離を縮めましたが、
心の距離を、とても離れたものにしてしまったと思います。
私は切に思います。若者には、きちんと意見の前に「私」という主語を入れて、まず自分の考えを他の人に伝えられる人間に成長してほしい、と。
話がそれました。
「会話」という字は「会って話す」と書くのです。
君たちが英語の時間にしつこく言われた「アイコンタクト」は、正しく会話を成立させるために、必要不可欠なものです。
相手の目をちゃんと見て、きちんとお互いの意見を交換する
これは、本当に大切なことなのです。
私は、君たちが英語で学んだ考え方を、日本語に逆輸入して、自分の意見を言える大人に成長してほしいです。
議論の時は、きちんとお互いの考えを言い合い、でも、その後は、さらっとまたつき合える、そんな人間関係を作ってほしいです。